田町武家屋敷通り
角館のもう一つの武家屋敷通り 芦名(あしな)家が1620年に町造りをした時に、内町の武家屋敷群とは別に、町の南側地区「田町」に80旗の武士が住む事になります
角館町は城下町として発展してきました。仙北、北浦地方では応永年間(1394~1428年)頃より戸沢氏が勢いを増し、戸沢盛安の代には豊臣秀吉から角館の地に4万4千石の大名として認められました。関ヶ原の戦い後の大名配置換えにより戸沢氏は常陸へ(後に新庄へ)、秋田には佐竹義宣が入り、角館にはかつて会津の雄であった名族芦名義勝(佐竹義宣の弟)が佐竹氏より1万5千石を与えられ治めることになりました。 芦名氏は新しい城下町建設に取組み、武家町と町人町に分けられた町並みは400年余りを経た現在もほとんど変わっていません。その後、芦名氏は3代で断絶し、佐竹義隣(佐竹北家)が所預として入部し、幕藩体制の終る明治まで佐竹氏の時代が11代2百年余り続きました。 明治22年の市制・町村制の施行により、角館町、中川村、雲沢村、白岩村が生まれ、昭和30年3月に4町村が合併して「角館町」が誕生し、今日に至っています。
深い木立と重厚な屋敷構えが今もなお藩政時代の面影を残す町、角館。「みちのくの小京都」と呼ぶにふさわしい風情を、町全体に漂わせた桜の名所です。
この町は1620年(元和6年)角館地方を納めていた芦名義勝によって造られました。
豊かな仙北平野の北部に位置し、三方を山々に囲まれ、西は桧木内川、南は玉川に沿った地形で、城下町を形成するのに最も適した場所でもありました。
城下町の縄張り(設計)として最も注目されるのは、南北に伸びる町の中央に土塁を築き「火除け」を設け、武家居住区の「内町」と町人居住区の「外町(とまち)」とに分断したことです。
武家屋敷は生活の場所であると同時に、ひとつの城郭を成していると言えるでしょう。古城山山麓の国道341号から日除け前までの通称「武家屋敷通り」と呼ばれる区域が、1976年(昭和51年)9月、国の重要伝統的建造物群保存地区に一番最初に選定されました。
火除け地は内町と外町を区分するだけの役割ではありませんでした。
外町で火災が発生した時に内町に引火しないように、火除けを設けたと云われています。更に土塁の真ん中には木戸門を設けており、夜になると閉められていました。
火災だけではなく、不審者を侵入させない効果もあったのではないでしょうか。
現代は自由に行き来できますが、北の武家社会、南の商人・職人の社会に分かれていた町割りを、400余年後の今もその成り立ちを残したままとなっています。
角館の町内名には「表町下丁・上丁」や「東勝楽丁」等、「丁」がついている所と、「岩瀬町」「下新町」等、「町」がついている所があります。
これは武士の住んでいた町内名には「丁」が付き、商人町には「町」がついているのです。地名に数百年前の名残りが残っているのも、角館の魅力の一つです。

角館のもう一つの武家屋敷通り 芦名(あしな)家が1620年に町造りをした時に、内町の武家屋敷群とは別に、町の南側地区「田町」に80旗の武士が住む事になります
かつての商人町 「外町(とまち)」は、武家屋敷が立ち並ぶ「内町(うちまち)」と対照的に、商家などの町並みが続き、歴史を感じさせます。 古い建物や土蔵も
抱返り渓谷(だきがえりけいこく)は東北の耶馬渓と称され、両岸の原生林と岸壁にかかる滝や独特の青い渓流がとても美しく、新緑と紅葉の名所です。
かつての武士の生活空間 元和6年(1620)江戸時代のはじめ、芦名氏により大規模な都市計画が実施され、その後は佐竹北家の城下町として栄えた角館。 武家屋敷